ちょっとベンチに腰掛けて

何もしたくないなあ、疲れちゃったなあ、なんて言うくらいなら、大きくため息をつきましょう。

日々の暮らし


 最近はなかなか心置き無く遊ぶ時間がない。
僕の立場上、のんきに好きなことだけをして過ごすことはできないのだが、気晴らしもなく、友達と会うこともなく過ごしているとやはり気分は暗くなるものである。
LINEを一通送れば少しは心が楽になるものなのだが、どうにも上辺だけの交信になるような気がして送信ボタンを押す気になれない。
"いつでもLINEを返してくれる仲"というよりは"LINEくらいならいつでも返してあげる仲"と言った方がニュアンスが近いかもしれない。
まあ、何が言いたいかというと、最近何のために生活してるのかよくわからなくなったということである。
まだ若い上、恵まれた環境(この7文字は最早僕が自分のことを考える時に必ず思い浮かべる合言葉のようなものだ)に住む僕が不幸について語るなど決してあってはいけないようなものだが、幸福であるのがどういうことなのか、思索することくらいは許してもらいたい。

僕に足りないものの一つは、何のために生きているのか、目標がないことである。もちろん、周りの友人たちを見るにこの目標というものを明確に持っている人は少ない。彼らのうちには、ただ何となく、ちょっと楽しいことを探して、またつまらなくなったら別の楽しいことを探して、そのルーティンに依存して暮らしている奴らも多い。もし僕が数年前のように独我論に固執していたら、僕は彼らのことを能天気だとわらうが、今の僕はもう少し客観的に考えている。すなわち、僕も彼らと何ら変わりのない「目先の欲を満足させ続けてかろうじて生きている」のだ。
卑下しているわけではない。僕の持ちうる語彙ではネガティブイメージのものばかりで文を書くしかないだけで、「目先の欲」なんて書いているが、用はリアリストなのである。
やってられっか!
なんて叫びながらグダグダ生きるのは我々先進国に生まれたものの特権なのだ。罪悪感は高校生のころから感じているが、富は分配するためでなく享受するためにあるなら、むしろその罪悪感こそ幸福な家庭に生まれたうちの些細な対価である。
ま、そもそも、資本主義は夢を見ないはず。なんてね。



で。
自分の人生を自分らしく生きるだけなら、自殺してしまうのも頷ける。だが、他人のために生きているのなら、死ななくてもいいかなと思うのである。死ぬという選択肢を選ぶ前に今現状で試せるものが沢山あるからまずそれをこなしている、そういう点で自殺など優先順位が最下位なのだ。
勝てそうもない相手に対して、サレンダーするのではなく、現状できる限りのことを行ってから敗北する。得るものがあるかはわからない。果てしない自己確認である。
但し、これも幸福な国の"幸福な"若者のたちのうちの一人の話である。



とりあえず軽く書き直した。まだ変えるかも。