ちょっとベンチに腰掛けて

何もしたくないなあ、疲れちゃったなあ、なんて言うくらいなら、大きくため息をつきましょう。

新しく。



数ヶ月前に何を書いていたか、忘れてしまった。読み返してもないから、内容には矛盾があるかもしれない。
まあ、そもそも、すぐ矛盾が生じ得るほど僕の思考が安定していないのが悪なのかもしれないが。



僕は悩みを抱えている。おそらく、それは8年くらい前からずっとあったのだ。心の内にためているものは、決して表に顔を見せない。きっと暴れたり、叫んだり、何かを必死に主張しているのだろうが、僕自身がそれに気づくことはない。自己と自我の何と乖離していることか。日常の意識の中には全くといいほどたち現れない"じゃじゃ馬"であるが、しかし、どういうわけか、10月の頭を過ぎた頃から、僕の体を掴んで放さない。いや、むしろ底なし沼へ引き込もうとする得体の知れぬ手のようななにかに、引っ張られている。
「○○よ、この観念を忘れるな!お前が幸せを感じた時、その裏にいつも忍び寄る、耐えがたき孤独を忘れるな!」

くだらないのだ。僕がいつも鏡に向かって話しているということも、何かに没頭し、一喜一憂することも。
物心つく前に願った幸せのうち、まだ達成していないものはあるか?
僕は、その願った幸せよりさらに幸福な体験をしている。
いったい何が、心と身体をここに引き留めるのか。
実は夢の中こそ、僕自身の生きる世界なのではないだろうか。何か意味を持った出来事か、不変であり続け、意味を持ち続けるか?
もし問いを忘れたなら、その時こそ証明完了だ。今や現実に没頭しているお前の世界で、その問いは実際に意味を持ち続けたか?

これを「苦しみ」と呼ぶのだろうか。定義も、判断も、解釈も、僕が行う。すなわち、意味が欠ける。
他者の言ったことを信じるのは、慣れてしまえばできる。が、他者の存在は、疑いだしたら、そこで全てを諦めるしかない。それは、前提として、自明の理として与えられたものを疑うということだ。正しいとか間違っているとか、そういう次元の話ではなく、それはそもそも、あらゆるものから意味という名の価値の支持基盤を消去することなのだ。

一番ふさわしい言葉を使うなら、まさに孤独だ。
天涯孤独。
全ての問題を、"論じる必要性"に帰着させる。





いま、本当に、誰かと話したい。
一人でいることは、寂しい。
何もかも、喋ってしまいたい。